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Aṅguttara Nikāya 2 増支部経典 二集
5. Parisavagga 第五 集まり(衆会品)
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“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つでしょうか。
Uttānā ca parisā gambhīrā ca parisā. 浅い集まりと深い集まりです。
Katamā ca, bhikkhave, uttānā parisā? どんなものが浅い集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū uddhatā honti unnaḷā capalā mukharā vikiṇṇavācā muṭṭhassatī asampajānā asamāhitā vibbhantacittā pākatindriyā. 托鉢僧侶たちが落ち着きなく、無礼で、気まぐれで、無駄話が好きで、口が軽く、心に留める事をせず、状況認識力と深い瞑想に欠け、心がまとまっておらず、機能が訓練されていない集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, uttānā parisā. これが浅い集まりと呼ばれます。
Katamā ca, bhikkhave, gambhīrā parisā? どんなものが深い集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū anuddhatā honti anunnaḷā acapalā amukharā avikiṇṇavācā upaṭṭhitassatī sampajānā samāhitā ekaggacittā saṁvutindriyā. 托鉢僧侶たちが落ち着きがあり、無礼でなく、気まぐれでなく、無駄話をせず、口が軽くなく、心に留める事をして、状況認識力と深い瞑想があり、心がまとまっていて、機能が訓練されている集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, gambhīrā parisā. これが深い集まりと呼ばれます。
Imā kho, bhikkhave, dve parisā. これらが二つの集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ gambhīrā parisā”ti. これら二つで良いほうの集まりは深い集まりです。」
43
“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つでしょうか。
Vaggā ca parisā samaggā ca parisā. 分裂した集まりと親和的な集まりです。
Katamā ca, bhikkhave, vaggā parisā? どんなものが分裂した集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū bhaṇḍanajātā kalahajātā vivādāpannā aññamaññaṁ mukhasattīhi vitudantā viharanti. 托鉢僧侶たちが口論し、口喧嘩し、争い、棘のある言葉で互いを傷つけ続ける集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, vaggā parisā. これが分裂した集まりと呼ばれます。
Katamā ca, bhikkhave, samaggā parisā? どんなものが親和的な集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū samaggā sammodamānā avivadamānā khīrodakībhūtā aññamaññaṁ piyacakkhūhi sampassantā viharanti. 托鉢僧侶たちが親和的に暮らし、互いに感謝しあい、口喧嘩なく、牛乳と水のようによく融合し、親切な態度で互いを思いやる集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, samaggā parisā. これが親和的な集まりと呼ばれます。
Imā kho, bhikkhave, dve parisā. これらが二つの集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ samaggā parisā”ti. これら二つで良いほうの集まりは親和的な集まりです。」
44
“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つでしょうか。
Anaggavatī ca parisā aggavatī ca parisā. 最悪の集まりと最良の集まりです。
Katamā ca, bhikkhave, anaggavatī parisā? どんなものが最悪の集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ therā bhikkhū bāhulikā honti sāthalikā, okkamane pubbaṅgamā, paviveke nikkhittadhurā, na vīriyaṁ ārabhanti appattassa pattiyā anadhigatassa adhigamāya asacchikatassa sacchikiriyāya. 先輩の托鉢僧侶たちが贅沢でたるんでいて、堕落し、独りでいることをせず、未だ獲得していないものを獲得しようと、未だ達成していない事を達成しようと、未だ自覚していないものを自覚しようと活力を呼び起こさない先駆者である集まりです。
Tesaṁ pacchimā janatā diṭṭhānugatiṁ āpajjati. 後輩たちは先輩たちの例に従います。
Sāpi hoti bāhulikā sāthalikā, okkamane pubbaṅgamā, paviveke nikkhittadhurā, na vīriyaṁ ārabhati appattassa pattiyā anadhigatassa adhigamāya asacchikatassa sacchikiriyāya. 彼らもまた、贅沢になり、たるんだ状態になり、堕落し、独りでいることをせず、未だ獲得していないものを獲得しようと、未だ達成していない事を達成しようと、未だ自覚していないものを自覚しようと活力を呼び起こさない先駆者となります。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, anaggavatī parisā. これが最悪の集まりと呼ばれます。
Katamā ca, bhikkhave, aggavatī parisā? どんなものが最良の集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ therā bhikkhū na bāhulikā honti na sāthalikā, okkamane nikkhittadhurā, paviveke pubbaṅgamā, vīriyaṁ ārabhanti appattassa pattiyā anadhigatassa adhigamāya asacchikatassa sacchikiriyāya. 先輩の托鉢僧侶たちが贅沢でなくたるんでおらず、堕落しておらず、独りでいることを率先し、未だ獲得していないものを獲得しようと、未だ達成していない事を達成しようと、未だ自覚していないものを自覚しようと活力を呼び起こす集まりです。
Tesaṁ pacchimā janatā diṭṭhānugatiṁ āpajjati. 後輩たちは先輩たちの例に従います。
Sāpi hoti na bāhulikā na sāthalikā, okkamane nikkhittadhurā, paviveke pubbaṅgamā, vīriyaṁ ārabhati appattassa pattiyā anadhigatassa adhigamāya asacchikatassa sacchikiriyāya. 彼らもまた、贅沢でなく、たるんでおらず、堕落しておらず、独りでいることを率先し、未だ獲得していないものを獲得しようと、未だ達成していない事を達成しようと、未だ自覚していないものを自覚しようと活力を呼び起こします。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, aggavatī parisā. これが最良の集まりと呼ばれます。
Imā kho, bhikkhave, dve parisā. これらが二つの集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ aggavatī parisā”ti. これら二つで良いほうの集まりは最良の集まりです。」
45
“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つでしょうか。
Anariyā ca parisā ariyā ca parisā. 低俗な集まりと高尚な集まりです。
Katamā ca, bhikkhave, anariyā parisā? どんなものが低俗な集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū ‘idaṁ dukkhan’ti yathābhūtaṁ nappajānanti, ‘ayaṁ dukkhasamudayo’ti yathābhūtaṁ nappajānanti, ‘ayaṁ dukkhanirodho’ti yathābhūtaṁ nappajānanti, ‘ayaṁ dukkhanirodhagāminī paṭipadā’ti yathābhūtaṁ nappajānanti. 托鉢僧侶たちが、『これが苦悩です… これが苦悩の源です… これが苦悩の滅び尽きです… これが苦悩の滅び尽きに導く実践法です…』と真に理解していない集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, anariyā parisā. これが低俗な集まりと呼ばれます。
Katamā ca, bhikkhave, ariyā parisā? どんなものが高尚な集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū ‘idaṁ dukkhan’ti yathābhūtaṁ pajānanti, ‘ayaṁ dukkhasamudayo’ti yathābhūtaṁ pajānanti, ‘ayaṁ dukkhanirodho’ti yathābhūtaṁ pajānanti, ‘ayaṁ dukkhanirodhagāminī paṭipadā’ti yathābhūtaṁ pajānanti. 托鉢僧侶たちが、『これが苦悩です… これが苦悩の源です… これが苦悩の滅び尽きです… これが苦悩の滅び尽きに導く実践法です…』と真に理解している集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, ariyā parisā. これが高尚な集まりと呼ばれます。
Imā kho, bhikkhave, dve parisā. これらが二つの集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ ariyā parisā”ti. これら二つで良いほうの集まりは高尚な集まりです。」
46
“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つでしょうか。
Parisākasaṭo ca parisāmaṇḍo ca. くずたちの集まりと精鋭たちの集まりです。
Katamo ca, bhikkhave, parisākasaṭo? どんなものがくずたちの集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū chandāgatiṁ gacchanti, dosāgatiṁ gacchanti, mohāgatiṁ gacchanti, bhayāgatiṁ gacchanti. 托鉢僧侶たちが、えこひいき、敵対心、愚かさ、そして臆病さによる偏見で物事を決定する集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, parisākasaṭo. これがくずたちの集まりと呼ばれます。
Katamo ca, bhikkhave, parisāmaṇḍo? どんなものが精鋭たちの集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū na chandāgatiṁ gacchanti, na dosāgatiṁ gacchanti, na mohāgatiṁ gacchanti, na bhayāgatiṁ gacchanti. 托鉢僧侶たちが、えこひいき、敵対心、愚かさ、そして臆病さによる偏見なしに物事を決定する集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, parisāmaṇḍo. これが精鋭たちの集まりと呼ばれます。
Imā kho, bhikkhave, dve parisā. これらが二つの集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ parisāmaṇḍo”ti. これら二つで良いほうの集まりは精鋭たちの集まりです。」
47
“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つでしょうか。
Okkācitavinītā parisā nopaṭipucchāvinītā, paṭipucchāvinītā parisā nookkācitavinītā. 探求的な問いかけではなく装飾された話で教育された集まりと装飾された話ではなく探求的な問いかけで教育された集まりです。
Katamā ca, bhikkhave, okkācitavinītā parisā nopaṭipucchāvinītā? どんなものが探求的な問いかけではなく装飾された話で教育された集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū ye te suttantā tathāgatabhāsitā gambhīrā gambhīratthā lokuttarā suññatāpaṭisaṁyuttā tesu bhaññamānesu na sussūsanti na sotaṁ odahanti na aññā cittaṁ upaṭṭhapenti na ca te dhamme uggahetabbaṁ pariyāpuṇitabbaṁ maññanti. 悟った方によって話された深くて奥があり、卓越していて、空虚にまつわる説教が暗唱される時に托鉢僧侶たちは聞きたがりません。彼らは注意を払わず、理解しようと心を傾けず、それらの教えは学んで覚える価値があるとも思いません。
Ye pana te suttantā kavitā kāveyyā cittakkharā cittabyañjanā bāhirakā sāvakabhāsitā tesu bhaññamānesu sussūsanti sotaṁ odahanti aññā cittaṁ upaṭṭhapenti, te dhamme uggahetabbaṁ pariyāpuṇitabbaṁ maññanti, te ca taṁ dhammaṁ pariyāpuṇitvā na ceva aññamaññaṁ paṭipucchanti na ca paṭivicaranti: しかし、詩人によって作られたきらびやかな言葉や語句による詩、外部者によって作られた話、弟子たちによって話された話が暗唱される時、托鉢僧侶たちは聞きたがります。彼らは注意を払い、理解しようと心を傾け、それらの教えは学んで覚える価値があると思います。しかしこれらの教えを学んだ時に互いに質問したり調べたりしません。
‘idaṁ kathaṁ, imassa ko attho’ti? 『なぜこう言うのか。どういう意味なのか。』と。
Te avivaṭañceva na vivaranti, anuttānīkatañca na uttānīkaronti, anekavihitesu ca kaṅkhāṭhāniyesu dhammesu kaṅkhaṁ na paṭivinodenti. だから彼らは不明確な点を明確にせず、不明瞭な点を明瞭にせず、多くの疑わしい点をなくそうとはしません。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, okkācitavinītā parisā no paṭipucchāvinītā. これが探求的な問いかけではなく装飾された話で教育された集まりと呼ばれます。
Katamā ca, bhikkhave, paṭipucchāvinītā parisā nookkācitavinītā? どんなものが装飾された話ではなく探求的な問いかけで教育された集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū ye te suttantā kavitā kāveyyā cittakkharā cittabyañjanā bāhirakā sāvakabhāsitā tesu bhaññamānesu na sussūsanti na sotaṁ odahanti na aññā cittaṁ upaṭṭhapenti, na ca te dhamme uggahetabbaṁ pariyāpuṇitabbaṁ maññanti. 詩人によって作られたきらびやかな言葉や語句による詩、外部者によって作られた話、弟子たちによって話された話が暗唱される時、托鉢僧侶たちは聞きたがりません。彼らは注意を払わず、理解しようと心を傾けず、それらの教えは学んで覚える価値があると思いません。
Ye pana te suttantā tathāgatabhāsitā gambhīrā gambhīratthā lokuttarā suññatāpaṭisaṁyuttā tesu bhaññamānesu sussūsanti sotaṁ odahanti aññā cittaṁ upaṭṭhapenti, te ca dhamme uggahetabbaṁ pariyāpuṇitabbaṁ maññanti. しかし、悟った方によって話された深くて奥があり、卓越していて、空虚にまつわる説教が暗唱される時に托鉢僧侶たちは聞きたがります。彼らは注意を払い、理解しようと心を傾け、それらの教えは学んで覚える価値があると思います。
Te taṁ dhammaṁ pariyāpuṇitvā aññamaññaṁ paṭipucchanti paṭivicaranti: そしてこれらの教えを学んだ時に互いに質問したり調べます。
‘idaṁ kathaṁ, imassa ko attho’ti? 『なぜこう言うのか。どういう意味なのか。』と。
Te avivaṭañceva vivaranti, anuttānīkatañca uttānīkaronti, anekavihitesu ca kaṅkhāṭhāniyesu dhammesu kaṅkhaṁ paṭivinodenti. だから彼らは不明確な点を明確にして、不明瞭な点を明瞭にして、多くの疑わしい点をなくします。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, paṭipucchāvinītā parisā nookkācitavinītā. これが装飾された話ではなく探求的な問いかけで教育された集まりと呼ばれます。
Imā kho, bhikkhave, dve parisā. これらが二つの集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ paṭipucchāvinītā parisā nookkācitavinītā”ti. これら二つで良いほうの集まりは修飾された話ではなく探求的な問いかけで教育された集まりです。」
48
“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つでしょうか。
Āmisagaru parisā no saddhammagaru, saddhammagaru parisā no āmisagaru. 真の教えでなく物品に価値をおく集まりと、物品でなく真の教えに価値をおく集まりです。
Katamā ca, bhikkhave, āmisagaru parisā no saddhammagaru? どんなものが真の教えでなく物品に価値をおく集まりですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū gihīnaṁ odātavasanānaṁ sammukhā aññamaññassa vaṇṇaṁ bhāsanti: 托鉢僧侶たちが白色の服を着た在家達の前で互いに褒め合う集まりです。
‘asuko bhikkhu ubhatobhāgavimutto, asuko paññāvimutto, asuko kāyasakkhī, asuko diṭṭhippatto, asuko saddhāvimutto, asuko dhammānusārī, asuko saddhānusārī, asuko sīlavā kalyāṇadhammo, asuko dussīlo pāpadhammo’ti. 『この托鉢僧侶は両方の面で解放されています。この托鉢僧侶は智慧によって解放されています。この托鉢僧侶は自分自身で証明しました。この托鉢僧侶はものの見かたを獲得しました。この托鉢僧侶は信頼によって解放されています。この托鉢僧侶は道徳的で品性が善いです。この托鉢僧侶は不道徳的で品性が悪いです。』と。
Te tena lābhaṁ labhanti. このようにして彼らは物品を得ます。
Te taṁ lābhaṁ labhitvā gathitā mucchitā ajjhopannā anādīnavadassāvino anissaraṇapaññā paribhuñjanti. 物品を得ると、彼らはそれらにつながれ、夢中になり、執着心がわき、不利な点に盲目で、逃れる方法を知らずに使います。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, āmisagaru parisā no saddhammagaru. これが真の教えでなく物品に価値をおく集まりと呼ばれます。
Katamā ca, bhikkhave, saddhammagaru parisā noāmisagaru? どんなものが物品ではなく真の教えに価値をおく集まりですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū gihīnaṁ odātavasanānaṁ sammukhā aññamaññassa vaṇṇaṁ na bhāsanti: 托鉢僧侶たちが白色の服を着た在家達の前で互いに褒め合わない集まりです。
‘asuko bhikkhu ubhatobhāgavimutto, asuko paññāvimutto, asuko kāyasakkhī, asuko diṭṭhippatto, asuko saddhāvimutto, asuko dhammānusārī, asuko saddhānusārī, asuko sīlavā kalyāṇadhammo, asuko dussīlo pāpadhammo’ti. 『この托鉢僧侶は両方の面で解放されています。この托鉢僧侶は智慧によって解放されています。この托鉢僧侶は自分自身で証明しました。この托鉢僧侶はものの見かたを獲得しました。この托鉢僧侶は信頼によって解放されています。この托鉢僧侶は道徳的で品性が善いです。この托鉢僧侶は不道徳的で品性が悪いです。』と。
Te tena lābhaṁ labhanti. このようにして彼らは物品を得ます。
Te taṁ lābhaṁ labhitvā agathitā amucchitā anajjhosannā ādīnavadassāvino nissaraṇapaññā paribhuñjanti. 物品を得ると、彼らはそれらにつながれず、夢中にならず、執着心なしに、不利益な結果を知り、逃れる方法を理解して使います。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, saddhammagaru parisā noāmisagaru. これが物品ではなく真の教えに価値をおく集まりと呼ばれます。
Imā kho, bhikkhave, dve parisā. これらが二つの集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ saddhammagaru parisā noāmisagarū”ti. これら二つで良いほうの集まりは物品ではなく真の教えに価値をおく集まりです。」
49
“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つでしょうか。
Visamā ca parisā samā ca parisā. 不公正な集まりと公正な集まりです。
Katamā ca, bhikkhave, visamā parisā? どんなものが不公正な集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ adhammakammāni pavattanti dhammakammāni nappavattanti, avinayakammāni pavattanti vinayakammāni nappavattanti, adhammakammāni dippanti dhammakammāni na dippanti, avinayakammāni dippanti vinayakammāni na dippanti. 教えに反する行為がなされるのに対し教えに沿った行為がなされない、戒律に反する行為がなされるのに対し戒律に沿った行為がなされない、教えに反する行為が説明されルノに対し教えに沿った行為が説明されない、戒律に反する行為が説明されるのに対し戒律に沿った行為が説明されない集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, visamā parisā. (…) これが不公正な集まりと呼ばれます。
Katamā ca, bhikkhave, samā parisā? どんなものが公正な集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ dhammakammāni pavattanti adhammakammāni nappavattanti, vinayakammāni pavattanti avinayakammāni nappavattanti, dhammakammāni dippanti adhammakammāni na dippanti, vinayakammāni dippanti avinayakammāni na dippanti. 教えに沿った行為がなされるのに対し教えに反する行為がなされない、戒律に沿った行為がなされるのに対し戒律に反する行為がなされない、教えに沿った行為が説明されルノに対し教えに反する行為が説明されない、戒律に沿った行為が説明されるのに対し戒律に反する行為が説明されない集まりです。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, samā parisā. (…) これが公正な集まりと呼ばれます。
Imā kho, bhikkhave, dve parisā. これらが二つの集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ samā parisā”ti. これら二つで良いほうの集まりは公正な集まりです。」
50
“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つでしょうか。
Adhammikā ca parisā dhammikā ca parisā …pe… imā kho, bhikkhave, dve parisā. 原理に基づく集まりと原理に基づかない集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ dhammikā parisā”ti. これら二つで良いほうの集まりは原理に基づく集まりです。」
51
“Dvemā, bhikkhave, parisā. 「托鉢僧侶たちよ、これら二つの集まりがあります。
Katamā dve? どの二つですか。
Adhammavādinī ca parisā dhammavādinī ca parisā. 原理に基づかない会話をする集まりと原理に基づく会話をする集まりです。
Katamā ca, bhikkhave, adhammavādinī parisā? どんなものが原理に基づかない会話をする集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū adhikaraṇaṁ ādiyanti dhammikaṁ vā adhammikaṁ vā. 托鉢僧侶たちが教えに沿った修行上の問題、又は教えに反した修行上の問題を取り上げます。
Te taṁ adhikaraṇaṁ ādiyitvā na ceva aññamaññaṁ saññāpenti na ca saññattiṁ upagacchanti, na ca nijjhāpenti na ca nijjhattiṁ upagacchanti. しかし、彼らはお互いを説得せず、説得される事を許さず、お互いを納得させず、納得させられる事を許しません。
Te asaññattibalā anijjhattibalā appaṭinissaggamantino tameva adhikaraṇaṁ thāmasā parāmāsā abhinivissa voharanti: お互いを説得したり納得させるのが不可能なので、彼らは自分たちの意見を手放す事ができません。頑固にその修行上の問題にしがみつき、主張します。
‘idameva saccaṁ moghamaññan’ti. 『これが唯一の真実だ、他の考えは馬鹿げている。』と。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, adhammavādinī parisā. これが原理に基づかない会話をする集まりと呼ばれます。
Katamā ca, bhikkhave, dhammavādinī parisā? どんなものが原理に基づく会話をする集まりなのですか。
Idha, bhikkhave, yassaṁ parisāyaṁ bhikkhū adhikaraṇaṁ ādiyanti dhammikaṁ vā adhammikaṁ vā. 托鉢僧侶たちが教えに沿った修行上の問題、又は教えに反した修行上の問題を取り上げます。
Te taṁ adhikaraṇaṁ ādiyitvā aññamaññaṁ saññāpenti ceva saññattiñca upagacchanti, nijjhāpenti ceva nijjhattiñca upagacchanti. 彼らはお互いを説得し、説得される事を許し、お互いを納得させ、納得させられる事を許します。
Te saññattibalā nijjhattibalā paṭinissaggamantino, na tameva adhikaraṇaṁ thāmasā parāmāsā abhinivissa voharanti: お互いを説得したり納得させるのが可能なので、彼らは自分たちの意見を手放す事ができます。頑固にその修行上の問題にしがみつかず、主張しません。
‘idameva saccaṁ moghamaññan’ti. 『これが唯一の真実だ、他の考えは馬鹿げている。』と。
Ayaṁ vuccati, bhikkhave, dhammavādinī parisā. これが原理に基づく会話をする集まりと呼ばれます。
Imā kho, bhikkhave, dve parisā. これらが二つの集まりです。
Etadaggaṁ, bhikkhave, imāsaṁ dvinnaṁ parisānaṁ yadidaṁ dhammavādinī parisā”ti. これら二つで良いほうの集まりは原理に基づく会話をする集まりです。」
Parisavaggo pañcamo.
Tassuddānaṁ
Uttānā vaggā aggavatī,
Ariyā kasaṭo ca pañcamo;
Okkācitaāmisañceva,
Visamā adhammādhammiyena cāti.
Paṭhamo paṇṇāsako samatto.